1980年代前半、新日本プロレスと全日本プロレスの外国人レスラー引き抜き合戦の勝因とは?

プロレス

1980年代前半に新日本プロレスと全日本プロレスの間で繰り広げられた外国人レスラーの引き抜き合戦。特に、ハンセンとシンという新日主力の外国人レスラーが全日に引き抜かれたことで話題となり、その後の両団体の勢力図に大きな影響を与えました。この歴史的な出来事を振り返りながら、全日本が勝利した理由やその要因について解説します。

全日本プロレスの勝因を探る

全日本プロレスが新日本プロレスから外国人レスラーを引き抜くことに成功した背景には、いくつかの要因が絡んでいます。最も注目されるのは、全日本の資金力と興行力の差です。全日本は、強力なスポンサーや日本テレビという民放のバックアップを持っており、この強力な資金力が興行や選手契約において有利に働きました。

また、全日本の創設者である馬場さんのアメリカマット界での影響力や、NWA副会長としての実績も大きな要因です。アメリカでの信頼を背景に、外国人レスラーが全日本に集まりやすくなったことは、プロモーターとしての信用度に依存していた部分も大きかったと言えるでしょう。

新日本プロレスの苦境と全日本との差

新日本プロレスは、1980年代初めに非常に好調でしたが、アントン・ハイセルの経営問題や借金問題が浮き彫りになり、資金的に厳しくなりました。これにより、外国人レスラーとの契約や大規模な興行の開催に支障をきたすこととなり、全日本に対して引き抜き戦で劣位に立ちました。

また、新日本は当時、猪木選手が中心となり人気を集めていましたが、プロモーターとしての戦略や選手の引き抜きにおいては、資金面やバックのサポートが不足していたことが影響したと考えられます。

日本のプロレス業界の競争と全日本の強み

全日本プロレスが新日本に対して勝利した要因の一つには、競技者としての戦略や、選手間の結束が強かったことが挙げられます。馬場さんの指導力と興行力は確かに大きな武器となり、外国人レスラーとの信頼関係を築く上で有利に働きました。また、全日本は当時、外国人レスラーを中心にした魅力的なカードを組み、ファンを惹きつけることに成功しました。

全日本と新日本のプロモーターとしての差

猪木と馬場という二大プロモーターの違いも大きな要素でした。猪木選手は、新日本プロレスを創設した後も自己中心的なスタイルで活動を行い、戦略的な面でも少し固執することがありました。一方、馬場さんはアメリカをはじめとする外国との関係を築く能力に長けており、国際的な魅力を持つレスラーたちを次々に引き寄せました。

そのため、全日本が外国人レスラーを引き抜くことで、興行や視聴率、集客において新日本に対して圧倒的に優位に立つことができました。

まとめ

1980年代前半の外国人レスラー引き抜き戦争において、全日本プロレスの勝因は、資金力、興行力、そして馬場さんの国際的な信頼に基づく選手引き抜き戦略にあったと言えます。一方で、新日本プロレスは、経営面での不安定さと資金不足が原因で全日本に対して劣位に立ち、外国人レスラーの引き抜きに失敗しました。この時期の両団体の勢力争いは、その後の日本のプロレス業界に大きな影響を与えることとなりました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました