広陵高校の甲子園辞退問題と「見ているだけも同罪」論の是非を考える

高校野球

2024年夏の高校野球シーズンでは、広陵高校が部員による不祥事のため甲子園出場を辞退するという衝撃的なニュースが大きな議論を呼びました。特に注目されたのは、いじめや暴行行為に直接関与していない部員たちまで連帯責任を問われ、甲子園の夢を断たれる結果になったことです。この件を通して、「見ていただけでも同罪なのか」という倫理的な問いが多くの人の関心を集めています。

「見ているだけも同罪」という考え方

日本社会においては、いじめや不正行為において「傍観者も加担者と同じだ」とする見方があります。これは、傍観者が何も行動しないことで加害行為を助長してしまう可能性があるためです。しかし、実際の現場では、止めに入ることで自分が被害者になるリスクが高く、その行動が容易ではないことも理解する必要があります。

たとえば、体格差がある暴力行為の現場で、高校生が一人で立ち向かえば自身が被害に遭う可能性は極めて高いでしょう。そのため、単純に「止めなかったから同罪」と断じるのは現実的ではありません。

通報という選択肢とそのリスク

通報は勇気ある行動であり、第三者の介入を促すために有効です。しかし、部活動という集団に属する生徒にとっては「通報=連帯責任での処分」というリスクを伴う現実があります。特に甲子園という大舞台を目前にした高校球児にとって、その選択は非常に重いものになります。

一度きりの不祥事や突発的な暴力であっても、外部から見れば「部全体の規律問題」と判断され、結果的に甲子園出場辞退のような厳しい処分につながるのです。

「超能力で気付け」という無理難題

今回のケースが示したのは、当事者でない生徒やその場に居なかった部員までが同じ処分を受ける理不尽さです。「その場にいなかった人は気付けなかったはず」という主張は当然であり、現実的に不可能なことを求められているに等しいでしょう。

この点は制度や学校側の運用にも課題があり、全員が一律に罰を受ける仕組みが果たして妥当なのかが問われています。

高校生に求められる責任の範囲

正論として「止めるべき」「通報すべき」という意見は理解できますが、それを高校生という立場にどこまで求めるかは慎重に考える必要があります。大人でさえいじめや不正を目の前にして行動できないケースがある中で、未成年の生徒にすべての責任を押し付けるのは酷とも言えるでしょう。

むしろ必要なのは、安心して通報できる仕組みや、止められなかった場合でも守られる制度の整備です。これがなければ「見て見ぬふり」が続き、結局は同じ問題が繰り返されてしまいます。

まとめ

広陵高校の辞退問題を通じて浮き彫りになったのは、「見ているだけも同罪」という言葉の現実との乖離です。止めることができない状況や、通報によって自分たちも不利益を被る可能性を考えれば、高校生に一方的に責任を押し付けるのは不公平です。今後は、連帯責任の在り方や、生徒が安心して声を上げられる仕組み作りが必要であると考えられます。

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