1979年の「プロレス夢のオールスター戦」と1982年の第2回計画の真相

プロレス

1979年8月26日に東京スポーツ新聞社主催で開催された「プロレス夢のオールスター戦」は、日本のプロレス史における金字塔的な大会でした。新日本プロレス、全日本プロレス、そして当時活動していた国際プロレスの3団体が一堂に会し、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のB・I砲が約8年ぶりに復活するなど、ファンにとっては夢のような興行となりました。

第2回オールスター戦の計画とその経緯

この大会の成功を受け、1982年には第2回「プロレス夢のオールスター戦」が計画されました。新日本と全日本は外国人レスラーの引き抜き合戦を繰り広げており、これを受けて東京スポーツが仲裁に入り、両団体間で引き抜き防止協定が結ばれました。この協定の一環として、再び両団体が合同興行を行う案が持ち上がったのです。

新日本プロレスは、猪木の個人的事業であるアントン・ハイセルが失敗し、資金繰りに困窮していたため、この提案に積極的に乗り出しました。東京スポーツからは手付金として300万円の小切手が新日本と全日本に渡されましたが、全日本のジャイアント馬場は猪木の裏切りを警戒し、これを受け取らず、最終的に交渉は決裂しました。

開催断念の背景とその後の影響

交渉決裂の直接的な原因は、東京スポーツの関係者が極秘情報を漏洩したことにあります。これにより馬場が激怒し、全日本プロレスは協力を拒否しました。結果として、1982年の第2回オールスター戦は実現しませんでした。

その後、両団体の合同興行は長らく実現せず、次に「プロレス夢のオールスター戦」が開催されたのは、2011年の東日本大震災復興支援を目的とした「ALL TOGETHER」でした。これにより、32年ぶりの合同興行が実現しました。

まとめ

1979年の「プロレス夢のオールスター戦」は、当時のプロレスファンにとって忘れられない大会でした。1982年に計画された第2回大会は、内部の対立や情報漏洩などの要因により実現しませんでしたが、その後のプロレス界における合同興行の礎となりました。

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