1985年11月3日、メキシコW杯アジア最終予選の第2戦、日本代表は韓国代表とソウルで対戦し、0-1で敗れました。この試合で日本は、ホームでの初戦を1-2で落としており、アウェイでの試合で2得点以上が必要でした。結果として、7度目のW杯予選挑戦はまたしても失敗に終わり、悲願のW杯初出場は遠のいてしまいました。この記事では、当時の試合の経緯と、その後の影響について振り返ります。
1. 森孝慈監督の決断と総攻撃態勢
試合前、日本代表監督の森孝慈は、攻撃的な選手起用を決断しました。西村昭宏と水沼貴史を外し、代わりに柱谷幸一、原博美、与那城ジョージ、戸塚哲也、木村和司を送り込むことで“総攻撃態勢”を敷きました。しかし、この選手起用が功を奏することはなく、韓国の厳しい守備により、日本の攻撃は封じ込まれてしまいます。
試合の中で、韓国は冷静にゲームをコントロールし、日本は攻撃を組み立てることができませんでした。シュートはわずか1本しか打てず、特に韓国の守備陣は非常に堅実で、日本の攻撃陣に突破口を与えませんでした。
2. 許丁茂の決勝ゴールと試合の流れ
後半15分、試合が進む中で、日本の守備が集中力を欠いた瞬間が訪れます。韓国の許丁茂(ホ・ジョンモ)が痛恨のゴールを決め、そのまま試合は0-1で終了。韓国にとっては、このゴールが決勝点となり、2戦合計でも1-3で敗北することが確定しました。
このゴールが試合の流れを決定づけ、日本のW杯出場の夢は再び潰えることとなりました。韓国の堅実な守備と冷静な攻撃が際立った試合でした。
3. 日本代表のW杯挑戦の歴史とその後の影響
今回の敗北は、7度目のW杯予選挑戦が失敗に終わった瞬間でした。日本のサッカーがまだ世界の舞台に届くには時間がかかることを痛感させられました。その後、日本は1998年フランスW杯でようやく初出場を果たしますが、この1985年の敗北はその後のサッカー改革と成長の礎となりました。
当時、プロとアマチュアの差がどれほど大きかったかが実感でき、プロ選手の成長が日本サッカーを進化させる原動力となったことは明らかです。この試合が日本サッカーにとっての教訓となり、未来への基盤を築いたと言えるでしょう。
4. 今振り返る40年前の思い出と教訓
2025年11月3日で40年が経過した今、この試合を振り返ることで、当時の選手たちの努力や苦悩が蘇ります。結果としては敗北でしたが、それは日本サッカーの歴史において重要な位置を占める試合です。多くのサッカーファンにとって、この試合の記憶は色あせることなく残り続けています。
この敗北から学んだ教訓は、現在の日本代表やサッカー界にも多くの影響を与えており、強化と成長を続けるための基盤となっています。
5. まとめ:40年経った今も色褪せない記憶
1985年の韓国との敗戦は、日本サッカーの歴史にとって、今も色褪せない記憶です。W杯予選での厳しい戦いが、日本のサッカーをどれほど変え、成長させたのかを考えると、その意味の大きさがわかります。この試合があったからこそ、今の日本代表があり、これからのサッカーに対する情熱が生まれたのです。
これからも、1985年の試合を忘れずに、日本サッカーの未来に向かって歩んでいきましょう。


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