アントニオ猪木が新日本プロレスで展開した格闘技路線は、当時のプロレスファンに衝撃を与えました。その後の日本のプロレス界に大きな影響を与えた一方で、「異端だったのでは?」という声もあります。本記事では、猪木が新日本プロレスで格闘技路線を推進した背景と、その影響について詳しく掘り下げます。
猪木の格闘技路線の始まり
アントニオ猪木は、1960年代から1970年代にかけて、新日本プロレスを世界的に有名にした立役者です。しかし、彼がプロレスの枠を超えて、他の格闘技を取り入れた路線を推進したことで、プロレスファンからは賛否両論を呼びました。特に、1970年代後半から1980年代にかけて、猪木は総合格闘技に近い形の試合をプロレスに取り入れるようになります。([参照](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E8%B1%AA%E7%94%B7))
その代表的なものが「猪木vsモハメド・アリ」の試合です。この試合は、プロレスとボクシングの垣根を超えた一大イベントとして、格闘技ファンからも注目を浴びました。
格闘技路線の特徴とプロレスとの違い
猪木の格闘技路線は、単なるプロレスにとどまらず、ボクシングや空手、さらには総合格闘技(MMA)を取り入れることで、戦い方が多様化していきました。これにより、新日本プロレスは「プロレス=スポーツエンターテインメント」といったイメージから、より「真剣な戦い」にシフトしたとも言えます。
例えば、1983年の「猪木vsアリ」の試合は、プロレスにおけるストーリー性と格闘技のリアルさを融合させる試みとして注目されました。試合の結果こそアリの勝利に終わりましたが、両者の実力差を考慮した上で、試合そのものが大きな意味を持ちました。
格闘技路線が引き起こした賛否両論
猪木の格闘技路線には賛否が分かれました。賛成派は、プロレスが単なるエンタメにとどまらず、格闘技としてのリアルさを追求した点を高く評価しました。一方で、反対派は「プロレスはあくまでエンターテインメントであるべき」という立場から、猪木の路線を異端視しました。([参照](https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/04/29/kiji/20210429s00021000229000c.html))
また、格闘技路線を進める過程で、猪木は数多くの格闘家と対戦しましたが、その結果が必ずしもプロレスファンに受け入れられたわけではありません。特に、プロレスの試合と異なり、戦いが予測不可能であり、観客にとっては「どちらが勝つのか分からない」という不安が伴いました。
猪木の格闘技路線の影響とその後のプロレス界
猪木の格闘技路線は、プロレスにリアリズムを導入し、後の総合格闘技の発展に影響を与えました。UFCのような総合格闘技団体の誕生も、猪木が格闘技を取り入れたことが一因とされています。
新日本プロレスにおける猪木の改革は、後の「闘志」や「真剣勝負」といった要素が強調される方向へと繋がり、長い目で見るとプロレス界の多様化に寄与したと言えるでしょう。
まとめ
猪木の新日本プロレスにおける格闘技路線は、間違いなく「異端」とも言える存在でしたが、その異端性がプロレスというジャンルを進化させ、格闘技の多様性を広げる一因となったことは間違いありません。賛否両論がある中で、猪木が挑戦し続けた姿勢こそが、今日のプロレスや格闘技の発展に多大な影響を与えました。
今もなお、猪木の格闘技路線を評価する声は多く、プロレスと格闘技の融合という挑戦は、その後の時代において重要な遺産となっています。


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