NWAインターJr王座のベルトデザインとその背景

プロレス

1982年10月の後楽園ホール大会で行われたNWAインターJr王座決定戦の第3戦。大仁田厚がチャボ・ゲレロを下し、王座に就く瞬間はプロレス史に刻まれる名場面となりました。しかし、その際に新たに作り替えられたチャンピオンベルトについて、なぜNWA世界ヘビー級王座と同じレイスモデルのベルトを作らなかったのかという疑問があります。この記事では、インターJr王座のベルトデザインにまつわる背景と、当時のプロレス業界の状況について詳しく解説します。

新たに作り替えられたインターJr王座のベルト

チャボ・ゲレロが新日本プロレスから持ち逃げしたチャンピオンベルトに代わって、全日本プロレスは新たにインターJr王座のベルトを作り直しました。そのデザインは、インターナショナルヘビー級王座のベルトを模したものであり、NWA世界ヘビー級王座のレイスモデルのベルトを使用しなかった理由に興味が湧きます。

当時の全日本プロレスは、新日本プロレスとの企業戦争が激化しており、敵対する新日本のタイガーマスクが正統とされていたNWA世界Jrヘビー級王座を巻いていたため、全日本側は独自のデザインで王座を作る必要がありました。この背景が、NWA世界ヘビー級王座と同じレイスモデルを使用しなかった理由と考えられます。

プロレス業界の企業戦争とベルトデザインの影響

新日本プロレスのタイガーマスクが巻いていたNWA世界Jrヘビー級王座と、全日本プロレスのインターJr王座は、それぞれ別の勢力を代表する象徴的なアイテムでした。タイガーマスクが巻いていたベルトは、正統の王座と見なされていた一方で、全日本の大仁田厚が獲得したインターJr王座は、全日本の独自性を打ち出すための象徴として位置付けられました。

そのため、全日本がNWA世界ヘビー級王座と同じレイスモデルを使わなかったのは、単にデザインの問題ではなく、企業間の競争やプロレスのストーリーライン、ファンの期待に応えるための戦略的な選択だったと言えるでしょう。

馬場さんの心情と佐山タイガーマスクの巻いたベルト

全日本プロレスの創設者であるジャイアント馬場さんは、タイガーマスク(佐山聡)が巻く正統のベルトに対して複雑な思いを抱いていたことは間違いありません。しかし、佐山の実力と魅力を認めざるを得なかったという点もあるでしょう。馬場さんが渋々でもタイガーマスクに正統なベルトを与えた背景には、新日本プロレスの競争力を認めつつ、自身の選手たちの力を引き出すための戦略があったと考えられます。

その一方で、全日本プロレスでは大仁田厚やセブン(アンドレ・ザ・ジャイアント)といったスター選手が登場し、プロレス界を盛り上げていきました。しかし、佐山のような選手と正面から勝負するには難しい部分もあったため、全日本側は独自の王座デザインを採用し、他の方法で競争力を維持していったのです。

まとめ

NWAインターJr王座のベルトがレイスモデルではなく、インターナショナルヘビー級王座に似たデザインに変更された背景には、当時のプロレス業界における企業戦争とその影響が大きいことがわかります。全日本プロレスは、新日本プロレスとの競争の中で自らの特色を出すために独自のデザインを選択したと考えられます。また、馬場さんが佐山の実力を認めつつも、独自の方針でプロレスを進めたことが、この時期のベルトの選択に影響を与えたのです。

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