1980年代の全日本プロレスで“第3の男”として存在感を高めていった天龍源一郎さんは、豪快なラリアットやパワーファイトだけでなく、延髄斬りや卍固めといった技も積極的に使用していました。
しかし、延髄斬りといえばアントニオ猪木さん、卍固めも新日本プロレスの象徴的な技として知られていたため、「ライバル団体のエース技を使って馬場さんは面白くなかったのでは?」と感じるファンも少なくありません。
この記事では、当時の全日本プロレスの空気感やジャイアント馬場さんの考え方、そして天龍源一郎さんの立場を踏まえながら、このテーマを掘り下げていきます。
延髄斬りと卍固めは“新日本の象徴”だった
1980年代当時、延髄斬りや卍固めは単なる技以上の意味を持っていました。
特に延髄斬りは、アントニオ猪木さんの代名詞の一つとして知られ、テレビ中継でも大きな歓声が起きる技でした。
卍固めについても、「燃える闘魂」を象徴する関節技として強いイメージがありました。
つまり、これらの技は単なるプロレス技ではなく、“新日本プロレスのカラー”そのものでもあったのです。
そのため、全日本所属の天龍源一郎さんが使うことに違和感を持つファンがいたのも自然な流れでした。
馬場さんは“技の所有権”に厳格ではなかった
ただし、ジャイアント馬場さんは意外にも「この技は誰のもの」という考え方を強く押し付けるタイプではなかったと言われています。
むしろ馬場さんは、。
- 選手の個性
- 観客の盛り上がり
- 試合の説得力
を重視する傾向がありました。
実際、全日本プロレスでは海外レスラーの技術を積極的に取り入れる文化もありました。
そのため、「他団体の技だから禁止」という感覚は、現在のファンが想像するほど強くなかったとも言われています。
もちろん内心で複雑な感情がゼロだったとは断言できませんが、少なくとも表立って問題視したという話はあまり残っていません。
天龍源一郎は“全日本らしくない男”だった
天龍源一郎さんは、もともと全日本プロレスの王道スタイルの中でも異質な存在でした。
当時の全日本は、。
- 重厚感
- 受けの美学
- 大型外国人との攻防
が特徴でした。
一方、天龍さんは荒々しく、感情を前面に出すファイトスタイルで人気を獲得していきます。
そのため、延髄斬りのようなスピード感ある技も自然にハマっていました。
つまり、単なる“技のコピー”ではなく、天龍流として再解釈されていた面が大きいのです。
全日本と新日本は“対立しながらも影響し合っていた”
1980年代のプロレス界は、全日本と新日本が強く競い合っていました。
ただし、完全に断絶していたわけではありません。
ファンも両団体を見比べていましたし、選手も互いを意識していました。
そのため、人気技や流行スタイルが互いに影響し合うことは珍しくありませんでした。
| 団体 | 特徴 |
|---|---|
| 全日本プロレス | 王道・重厚感・外国人レスラー中心 |
| 新日本プロレス | 闘魂・スピード・格闘技色 |
天龍さんは、その両方の魅力を吸収していたレスラーとも言えます。
馬場さんが本当に嫌なら使わせなかった可能性が高い
当時の全日本プロレスでは、ジャイアント馬場さんの影響力は非常に大きかったです。
つまり、本当に嫌だったなら技の使用自体を止められた可能性が高いと言われています。
しかし実際には、天龍さんは継続的に延髄斬りや卍固めを使用していました。
これは逆に言えば、馬場さんがある程度認めていたとも解釈できます。
特に天龍革命以降は、全日本プロレスにも新しい刺激が必要な時期でした。
その意味で、従来の王道とは異なる天龍さんのスタイルは、団体に新鮮さを与えていたとも言えるでしょう。
技よりも“誰が使うか”が重要だった時代
プロレスでは、同じ技でも使う選手によって印象が大きく変わります。
例えば延髄斬り一つでも、。
- 猪木さんなら闘魂
- 天龍さんなら荒々しさ
- 他選手ならスピード技
というように、受け取られ方が変わります。
つまり、技そのものより“誰がどう使うか”が重要だったのです。
そのため、天龍源一郎さんの延髄斬りは、結果的に“天龍の技”としてファンに浸透していきました。
まとめ
天龍源一郎さんが延髄斬りや卍固めを使用していたことに対し、「馬場さんは面白くなかったのでは?」と考えるファンは少なくありません。
しかし実際には、ジャイアント馬場さんは技の独占よりも、選手の個性や試合の魅力を重視していた面が強かったと考えられます。
また、天龍さん自身が全日本の中で異色の存在だったこともあり、新日本的な技が自然にマッチしていました。
結果として、延髄斬りや卍固めは“コピー”ではなく、“天龍流プロレス”の一部として定着していったのです。


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