1972年に日本プロレスが事実上崩壊した際、アントニオ猪木と坂口征二を中心とする新日本プロレスと、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスへと人材が分散しました。その過程では、坂口征二が提唱したとされる「新日本プロレスと日本プロレスの対等合併案」を巡り、賛同した選手と残留した選手に分かれたことで、後年まで語られる人間関係のドラマが生まれました。
特に興味深いのは、当初は新日本側に加わらなかった選手たちが、その後さまざまな経緯を経て新日本のリングに上がったケースです。果たして彼らと坂口征二との間にはわだかまりが残っていたのでしょうか。
日プロ崩壊時の「対等合併案」とは
日本プロレス末期には経営問題や路線対立が深刻化していました。その中で坂口征二は、日本プロレスの選手や資産を新日本へ吸収するのではなく、対等な立場で新団体を構築する構想を持っていたとされています。
しかし実際には選手ごとの思惑や待遇面の問題があり、全員が同じ方向を向くことはできませんでした。その結果、一部選手は日本プロレス残留を選択し、その後のキャリアも大きく分かれることになります。
大木金太郎や上田馬之助との関係
大木金太郎や上田馬之助は、後年になって新日本マットへ参戦した代表例です。ただし両者とも独立心や個性が非常に強く、リング外でも独自の考えを持つ人物でした。
プロレス関係者の証言では、アントニオ猪木や新間寿の強い意向によって参戦が実現した側面があったと語られることがあります。一方で坂口征二は興行面や団体運営の観点から慎重だったという見方もあります。
実際に試合では緊張感の強い場面もあり、純粋なプロレスというより意地と意地のぶつかり合いになったと振り返る関係者も少なくありません。
キラー・カーンこと桜田一男(ナガサキ)の場合
桜田一男は海外でキラー・カーンとして成功した後、新日本プロレスにも参戦しています。
桜田の場合、大木金太郎や上田馬之助のような政治的対立の中心人物ではなく、海外での実績や商品価値が高く評価されていた側面があります。
そのため坂口征二との個人的な確執が大きかったという証言はあまり見られません。むしろ新日本側が戦力として高く評価し、参戦を歓迎したという見方が一般的です。
また一部では坂口自ら参戦を働きかけたという話もありますが、公式に確認された資料は多くなく、業界内の証言ベースで語られることが多いテーマです。
ザ・グレート・カブキ(高千穂明久)のケース
高千穂明久は海外遠征で大成功を収め、ザ・グレート・カブキとして世界的な知名度を獲得しました。
カブキの場合も、日プロ崩壊時の立場よりも海外で築いた実績の方が重視されたと考えられています。
新日本としても国際的な知名度を持つスターは魅力的な存在であり、過去の立場を理由に排除するメリットはほとんどありませんでした。
そのため、坂口との深刻なわだかまりが表面化したという話はあまり知られていません。
小鹿明との関係はどうだったのか
小鹿明は日本プロレス出身者の中でも比較的穏健な立場で知られていました。
大物同士の対立構図に巻き込まれることが少なく、後年の交流でも大きな確執が語られることはほとんどありません。
そのため、坂口征二との関係も対立というよりは時代の流れの中で自然に接点が生まれたと見る方が実情に近いでしょう。
なぜ後年は参戦が実現したのか
1970年代前半は団体間の対立意識が非常に強かった一方で、1980年代以降になると興行面やビジネス面の事情が優先されるケースが増えていきました。
スター選手の参戦は観客動員に直結するため、過去のわだかまりよりも興行価値が重視されるようになります。
| 選手 | 新日本参戦時の特徴 | 坂口との確執の印象 |
|---|---|---|
| 大木金太郎 | 話題性が高い | 比較的強かったとされる |
| 上田馬之助 | 個性派ヒール | 緊張関係が語られる |
| 桜田一男(キラー・カーン) | 海外実績重視 | 大きくは語られない |
| 高千穂明久(カブキ) | 国際的人気 | 比較的少ない |
| 小鹿明 | 穏健派 | ほぼ見られない |
このように選手ごとに事情は異なり、一括りに語ることはできません。
まとめ
日本プロレス崩壊後に新日本プロレスへ参戦した元日プロ勢の中でも、大木金太郎や上田馬之助は過去の経緯から坂口征二との緊張関係が語られることがあります。
一方で、キラー・カーンこと桜田一男やザ・グレート・カブキ、高千穂明久、小鹿明らについては、海外での実績や商品価値が評価され、過去の立場を超えて参戦が実現したと考えられます。
結果として、新日本プロレスの歴史を振り返ると、団体間の対立よりもプロレス界全体の発展や興行価値が優先される時代へと移行していったことが見えてきます。


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