力道山はなぜ女子プロレスを否定したのか?戦後日本の女子プロレス史と「プロレス観」から理由を解説

プロレス

日本プロレス界の礎を築いた力道山について調べると、「女子プロレスを認めなかった」「女子プロレスに圧力をかけた」という話が出てきます。現在では女子プロレスも一つのプロレス文化として確立しているため、なぜ力道山ほどプロレスの普及に尽力した人物が女子プロレスには否定的だったのか、不思議に感じるところです。

この問題を理解するには、単純に「力道山が女性レスラーを嫌っていた」と考えるより、1950年代当時の女子プロレスがどのように見られていたのか、そして力道山が自分のプロレスをどのような興行として確立しようとしていたのかを分けて考える必要があります。

研究では、当時の女子プロレスには演芸や見世物に近いイメージが付きまとっており、力道山が自らのプロレスを「スポーツ性を持った大衆娯楽」として社会的に格上げしようとする中で、それと女子プロレスを明確に区別しようとしたことが指摘されています。一方で、その背景には当時の強いジェンダー観も存在していました。

実は日本の女子プロレスは力道山より先に存在していた

まず意外なのは、日本における女子プロレスの歴史が力道山のプロレスデビューよりも古いことです。

神戸新聞による猪狩定子の取材記事では、日本の女子プロレスは戦後間もない時期から存在し、猪狩定子は兄たちと進駐軍キャンプなどを回ってプロレス興行をしていました。力道山のデビューは1951年ですが、猪狩らによる活動はそれ以前から行われています。[参照:神戸新聞NEXT]

つまり「力道山が日本へプロレスを持ち込み、その後に女子版が生まれた」という単純な順番ではありません。戦後の日本には男子・女子を含め、複数のプロレス的興行が並行して存在していました。

初期の女子プロレスには「見世物」「演芸」のイメージが強かった

力道山の態度を理解するうえで重要なのが、当時の女子プロレスの社会的な位置づけです。

現在の女子プロレスを基準に考えると分かりにくいのですが、戦後初期の女子プロレスは、必ずしも現在のような本格的なスポーツエンターテインメントとして統一されていたわけではありません。芝居小屋や娯楽施設などで行われ、興行によってはお色気や見世物的要素が強く打ち出されることもありました。

京都大学リポジトリに収録された書評では、亀井好恵による研究を紹介し、当時の女子プロレスには「スポーツの衣をまとった演芸」に近いイメージがあり、それが力道山の考えるプロレスとは相容れなかったと整理されています。[参照:京都大学学術情報リポジトリ]

力道山はプロレスの「社会的地位」を上げようとしていた

1950年代の力道山が担った大きな役割は、プロレスを単なる見世物ではなく、大規模会場とテレビ中継を使った国民的大衆娯楽へ変えたことでした。

1953年に日本プロレスを設立し、1954年にはシャープ兄弟との試合がテレビ中継され、街頭テレビに大群衆が集まりました。その後、力道山が外国人レスラーを空手チョップで倒す姿は戦後日本を象徴するほどの人気を得ています。[参照:nippon.com 日本のプロレスの歴史]

その力道山からすると、自分が作ろうとしていた「国民的スポーツ娯楽」と、当時まだ見世物的なイメージを強く残していた女子プロレスを同じ「プロレス」として扱われることは、自分たちのブランド価値を下げかねない問題だったと考えられます。

「女子だから否定した」だけでは説明しきれない

力道山については、「プロレスは女子にはできないものだ」という趣旨の考えを持っていたと伝えられています。J-WAVEによる女子プロレス史の紹介でも、力道山の意向によって女子プロレスへ圧力がかかったという歴史が紹介されています。[参照:J-WAVE NEWS]

ただし、これを現代的な意味で「女性だから嫌いだった」とだけ解釈すると歴史を単純化しすぎます。力道山が問題視したとされるのは、女子による格闘そのものだけでなく、当時の女子プロレスに付随していた興行形態や社会的イメージでした。

一方で、当時の社会に「女性は激しい格闘技をするものではない」という価値観が強く存在していたことも無視できません。つまり、興行上のブランド戦略と当時の男性中心的なジェンダー観が重なっていたと考える方が実態に近いでしょう。

研究では「女子プロレス抑圧者としての力道山」というテーマも存在する

この問題はプロレスファンの伝聞だけではなく、学術的にも研究されています。

岡村正史編著『力道山と日本人』には、亀井好恵による「女子プロレス抑圧者としての力道山」という章が収録されています。青弓社の公式書籍紹介でも、この章がジェンダー論を含めて力道山を分析する内容として掲載されています。[参照:青弓社『力道山と日本人』]

さらに亀井の『女相撲民俗誌』にも同名の章が設けられており、女性による格闘・興行が男性中心のプロレス文化からどのように排除されたかという観点で検討されています。[参照:慶友社『女相撲民俗誌』]

つまり、力道山の女子プロレスへの態度は単なる個人的好き嫌いではなく、戦後日本におけるスポーツ、ジェンダー、大衆文化の境界を考える題材になっています。

力道山には男子プロレスを「本物」として確立する必要があった

当時のプロレスは、現在ほど社会的に認知されたジャンルではありませんでした。そのため力道山には、自分たちのプロレスを「真剣な身体能力と格闘技術を持つ男たちの競技」として見せる必要がありました。

例えば大相撲出身という自身の経歴、巨体の外国人レスラー、空手チョップ、血の出る激しい攻防といった要素は、「これは単なる演芸ではない」というイメージづくりに役立ちました。

そこへ当時「色物」「見世物」と見なされる場合もあった女子プロレスが同列に扱われれば、力道山が築こうとしていた男子プロレスの権威まで同じカテゴリーに置かれる可能性があります。そのため業界の境界を明確にする動機があったと考えられます。

男子プロレス市場を独占したいという興行上の事情も考えられる

力道山は単なる選手ではなく、日本プロレスを率いる経営者・興行師でもありました。

日本プロレスが成功すると、力道山は日本におけるプロレス市場の中心人物になります。nippon.comのプロレス史でも、力道山存命中の日本プロレスは事実上、日本プロレス界を代表する存在だったことが分かります。[参照:nippon.com]

そのため女子プロレスや他の独立したプロレス興行が「同じプロレス」として大きくなることは、興行上の競合にもなります。ただし、力道山が女子プロレスを否定した理由を市場独占だけに求める直接的資料は限られるため、これは複数ある背景要因の一つとして慎重に考えるべきです。

1950年の「禁止」と力道山の関係には注意が必要

女子プロレス史の紹介では、1950年に警視庁から女子プロレスへ禁止措置が出され、その背景に力道山側からの圧力があったという説明がしばしば見られます。

しかし歴史的事実を扱う際には、「力道山が直接行政へ命令して禁止させた」と単純化しない方が安全です。当時の興行規制、風紀の問題、女子プロレスの興行内容など複数の要因が絡んでいた可能性があります。

したがって、力道山が女子プロレスに否定的だったことと、行政上の禁止措置のすべてを力道山一人の行動へ帰属させることは分けて考える必要があります。

1954年には本格派の女子プロレスが大成功している

力道山が女子プロレスに否定的だったとしても、女子プロレスそのものが観客から支持されなかったわけではありません。

1954年にはアメリカの世界的女子レスラー、ミルドレッド・バークやメイ・ヤングらが来日し、猪狩定子ら日本人女子レスラーも参加する興行が行われました。蔵前国技館などで開催された興行は大きな注目を集めています。[参照:女子プロレス草創期の記録]

2024年刊行のプロレス史研究書『1954 史論―日出ずる国のプロレス』でも、ミルドレッド・バーク一行の日本ツアーが一章を使って扱われています。[参照:G SPIRITS WEB]

これは、力道山側が女子プロレスを評価しなくても、観客の側には女子レスラーの本格的な試合を求める需要が存在していたことを示しています。

初期女子プロレスも一枚岩ではなかった

「当時の女子プロレスは全部お色気興行だった」とまとめてしまうのも正確ではありません。

猪狩定子の活動やミルドレッド・バークらの来日興行のように、レスリング技術そのものを見せる本格的な試合も存在しました。神戸新聞の記事でも、女子プロレス草創期には女性の強さが賞賛される一方、軽蔑や性的興味でも見られるという複雑な状況があったことが紹介されています。[参照:神戸新聞NEXT]

つまり力道山が持っていた「女子プロレス=プロレスとは異なるもの」という見方自体が、当時の女子プロレスの一側面を強く捉えた評価だったとも言えます。

女子レスラー側からすれば、自分たちは本格的にレスリングをしているのに、「女子だから」「見世物だから」という理由でプロレス界から排除されたという側面もありました。

力道山のプロレス自体も「ショー」であることを否定していなかった

興味深いのは、力道山がプロレスからショー的要素を完全に排除しようとしていたわけではないことです。

亀井好恵の研究を紹介した京都大学の書評では、力道山自身に「プロレスはショー的スポーツだ」という考えがあったことが紹介されています。問題はショーかスポーツかという二者択一ではなく、「どのようなショーならプロレスとして認めるのか」という境界だったと考えられます。[参照:京都大学学術情報リポジトリ]

力道山のプロレスにも悪役外国人、派手な空手チョップ、テレビ映えする演出など大衆娯楽的要素は数多くあります。しかし、その中でも身体的な迫力や格闘性を前面へ出すことを重視していました。

そのため彼にとって問題だったのは「ショーだからダメ」ではなく、当時の女子プロレスが自分の理想とする「プロレスらしいショー」ではないと考えたことだったのでしょう。

当時の「男らしさ」と女子プロレスの存在

ジェンダー史の視点では、女子プロレスは単にスポーツの新ジャンルというだけでなく、「女性が男性と同じように殴り合い、投げ合い、強さを見せる」という存在でもありました。

戦後間もない日本では、現在以上に男女の社会的役割が明確に分けられていました。その時代に、女性がリング上で筋力や闘争心を見せること自体が、既存の女性像から大きく外れる行為でした。

亀井好恵の研究についての書評では、女子プロレスが男性主体のプロレス秩序やアイデンティティを脅かす存在として拒否されたという分析も紹介されています。[参照:京都大学学術情報リポジトリ]

現在の感覚で力道山を評価すると見誤りやすい

現在では女子プロレスに、男子プロレスとは別の高度な技術体系、スター、長い興行文化があります。全日本女子プロレスからビューティ・ペア、クラッシュ・ギャルズ、現在の各女子団体まで、日本独自の巨大な文化を築いてきました。

そのため現在の女子プロレスを見たうえで「女性にプロレスはできない」という考えを支持することは難しいでしょう。

ただし1950年代の力道山を理解するには、現在の完成された女子プロレスではなく、当時の女子プロレスが置かれていた文化的・興行的環境から考える必要があります。

女子プロレスはその後、力道山の評価とは逆の方向へ発展した

歴史的に見ると興味深いのは、力道山が女子プロレスをプロレス界の外側へ置こうとしたにもかかわらず、その後女子プロレスが独自の巨大な市場を作ったことです。

1960年代後半には女子プロレスのテレビ中継が始まり、1970年代にはビューティ・ペアが社会現象となりました。1980年代にはクラッシュ・ギャルズが女性ファンを中心に爆発的な人気を獲得します。

つまり結果的には、男子プロレスと同じものになるのではなく、女性ファン、アイドル性、格闘技性などを融合させた日本独自の「女子プロレス」という文化へ発展しました。

力道山が女子プロレスを否定した理由を整理

背景 考えられる内容
当時の女子プロレスのイメージ 一部に演芸・見世物・お色気興行的な印象があった
力道山のプロレス観 格闘性と身体的迫力を備えた「ショー的スポーツ」を志向した
ブランド戦略 日本プロレスを社会的に権威ある大衆スポーツ娯楽へ引き上げたかった
ジェンダー観 当時は激しい格闘を女性が行うことへの社会的抵抗が大きかった
業界構造 男子プロレス中心の秩序を明確にしようとする力が働いたと考えられる

この中のどれか一つだけで説明するより、複数の理由が重なったものとして理解する方が自然です。

「頭ごなしの否定」だったのかにも少し注意が必要

力道山が女子プロレスに否定的だったことを示す研究や証言はあります。しかし、力道山と女子レスラー側にまったく交流がなかったわけではありません。

2024年の『1954 史論―日出ずる国のプロレス』では、日本初期の女子プロレスラー猪狩定子の回想や、力道山を含む当時の男子プロレス界との関係も扱われています。[参照:G SPIRITS WEB]

また1954年のミルドレッド・バークらの女子プロレス興行パンフレットには、来日女子レスラーと力道山が握手している写真も残されていると古書資料で確認できます。[参照:1954年女子プロレス興行資料]

したがって、個人的に女子レスラー一人ひとりを敵視していたというより、「女子プロレスを自分の日本プロレスと同じプロレスとして認めること」に強く否定的だったと捉える方が適切です。

まとめ|力道山の女子プロレス否定はプロレス観・興行戦略・時代のジェンダー観が重なったもの

力道山が日本の女子プロレスを否定的に扱った理由は、単純に「女性が嫌いだった」「女性には格闘技ができないと思っていた」という一言では説明できません。

戦後初期の女子プロレスには、現在とは異なり見世物や演芸と結びついたイメージが強い時期がありました。一方、力道山は日本プロレスをテレビ、大規模会場、外国人スターなどを使った国民的大衆スポーツへ押し上げようとしていました。

そのため、自分が作ろうとしている「プロレス」と、当時の女子プロレスを同じものとして扱われることを嫌ったというのが大きな理由の一つと考えられます。

さらに、1950年代には「激しい格闘は男性が行うもの」というジェンダー観も強く、女性がリング上で身体的な強さを示すことそのものへの抵抗もありました。研究書『力道山と日本人』に「女子プロレス抑圧者としての力道山」という章が置かれていることからも、この問題が単なるプロレス団体同士の対立ではなく、戦後日本の男性性やジェンダーの問題として分析されていることが分かります。[参照:青弓社]

ただし、当時の女子プロレスすべてが低俗な見世物だったわけではありません。猪狩定子やミルドレッド・バーク、メイ・ヤングら本格派の女子レスラーも存在し、1954年の女子プロレス興行は大きな反響を得ました。その後、日本の女子プロレスは力道山の評価とは逆に独自の発展を遂げ、世界でも特異なほど大きな文化となっています。

歴史的には、力道山の否定姿勢は「当時の女子プロレスへの評価」「日本プロレスのブランド確立」「男子中心の業界秩序」「1950年代のジェンダー観」が複合したものとして見るのが最も理解しやすいでしょう。

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